愛とは何か?哲学とか心理学とか無関係に考えてみたら全ては自己愛という結論になった。

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多分、私が大学生だった頃だったと思うが「世紀末の詩」というドラマが放送されていた。

「愛とは何か」をテーマにした一話完結形式のドラマだったと思う。

主演は竹野内豊さんで、山崎努さん、坂井真紀さん、木村佳乃さんがメインキャスト。で、毎回有名な俳優さんがゲストとして登場し、いろんな形の愛について考えるという内容だ。そういえば、潜水艦を作っていたと思うけど、何のために作っていたか全く思い出せない・・・。

十数年も前のドラマなので内容も全く覚えていないが、このドラマを見ながら私なりに「愛とは何ぞや?」という事を考えていた。

「愛について考える」なんて気恥ずかしいことをしていたなんてことは完全に忘れていたが、何故かふと思い出したので、当時考えた「愛とは一体何なのか?」について思い出しながら書き残しておこうと思う。哲学とか心理学とは関係なく考えた結果である。

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愛の定義を考える

まず、愛について考察するには「愛」というものをある程度定義しなければならない。愛とは感情か?行動か?物か?名詞か?動詞か?ってことである。

ってことで、愛という言葉はどのように使うだろうか?愛のつく言葉や使い方を考えてみる。

  • 愛情
  • 愛人
  • 愛憎
  • 愛する
  • 愛したい
  • 愛が欲しい
  • 愛が芽生える
  • 愛が消える

あまり思いつかないが、愛とは名詞や動詞として使われるようである。しかし、俺は愛を動詞として定義し考えてみたい。なぜなら、名詞とすると愛は目に見えないものになってしまうからだ。目に見えない物について考えるのは難しい。だから、動詞として考えたい。

というと、いい加減に考えているような感じがするので、もう一つの理由を書いておくと、「愛とは行動の結果に現れるもの」だと思うからだ。ってことで、ちょっと強引だが、愛の定義は動詞・行動とする。

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何に対する愛と定義する?

愛とは何か?という問いに対し「行動の結果に現れるものである」というのも1つの答えのような気がするが、そんなだましのような答えを求めているのではないので更に考察を進めていく。

愛を行動と定義すると、今度は「誰に対する行動なのか?」という疑問が湧いてくる。

  • 異性を愛する。(男が女に、女が男に対する愛。同性間の愛もあるけどね・・・)
  • 家族を愛する。(親が子供に、子供が親に、兄弟同士に対する愛)
  • 動物を愛する。(動物に対する愛)
  • モノを愛する。(自分の所有しているモノに対する愛)
  • 地球を愛する。(人類とか、生物とか、地球とか愛の対象は限りない・・・)

愛とは様々なものに対して向けられる行動である。
まぁ〜、一般的に言えば、男性が女性に、女性が男性に対して起こす行動を愛として考えたいが、愛とはもっと大きいものな気がするので、いったん「誰に対する行動か?」という定義は行わない方向で考察を進めることにする。

・・・・

と思ったが、そもそも愛とは対象で違いがあるのだろうか?対象が云々という考察ではなく、「愛する」という行動自体をもっと深堀りすることが重要な気がする。

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愛するという行動

愛が行動であると仮定すると、愛は「人間が判断して起こす行為」だと言える。つまり、愛とは得体の知れない行動、説明が出来ない行動ではないのだ。意識的にしろ、無意識にしろ、人間の脳みそが判断して起こしている行動といえるのだ。

手を動かすこと、歩くこと、あくびをすること、笑うこと、泣くことと同じ行動なのである。

ということは、人は何かを愛したいと思うから、愛しているということになる。つまり、何かを愛することを望ま無い限り、愛するという行動を起こさないということになる。

ここでまた疑問が湧く。「自分が望まなくて起こる行動というものは無いのだろうか?」ということだ。例えば、「悲しくて涙を流す」という行動はどうだろう?何か悲しいことが起こった時、人は人前で泣きたくないと思っても涙を流してしまう事がある。この場合の「泣く」という行動は自分が望んだ行動なのだろうか?結論から言うと、無意識に望んだ行動と言える。この場合の涙は、ストレス発散のための涙だだからだ。悲しみというストレスを発散するために人は無意識に涙を流すという行動を選択しているのだ。

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無償の愛とは?

「愛するという行動は全て自分が望んで行うものである」とした場合、また疑問が発生する。それは「無償の愛」の存在だ。無償の愛としてパッと思いつくのは、母が子供に対して与える愛であり、母親は何の見返りも求めず無償の愛を子供に与えている。そして、自分の経験上、この無償の愛は確かに存在している。俺の母ちゃんは俺を無条件で愛してくれているからだ。

この無償の愛とは、我々の理解を超えた、得体の知れない、説明の付かないものではないのだろうか?

しかし、愛が行動である限り、やはり「我が子を愛したい」という願望・希望・欲望の上に成り立つものといえる。確かに子供から直接的な見返りは求めないのかもしれないが、自分の願望・希望・欲望を叶えるという意味では「無償」というのは言いすぎな気がする。見返りは求めないかもしれないが、所詮、自分の欲望を叶える行動に過ぎないのだから。

こう考えると、「愛とは何か?」という疑問に対する1つの答えが見えてくる。それは、愛とは「自己愛」ということだ。「誰に対する愛?」という疑問を前述したが、実は全て自分に対する愛、つまり「自己愛」なのではないだろうか?(何だか、ロマンチックではない結論へ向かい始めた気がするぞ・・・)

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愛とは自己愛?

例えば、母親と子供が犯罪者に捕まったと仮定しよう。そして、犯罪者は母親にこう言うのだ。「お前が死ねば、子供は助けてやる。反対に子供が死ねばお前を助けてやる。さぁ〜どっちを選ぶ?」

母親なら、普通は自分が死ぬことを選び子供を助けるでしょう。しかし、これは無償の愛による判断ではなく、自己愛による判断と言える。なぜなら、母親が子供を助けたいと願って起こした行動だからだ。子供を助けたいという自己の希望・願望・欲望が子供を助けるという行動を起こす根底にあるのである。

つまり、誰に対する愛であろうが、見返りを求めようが求めまいが、愛するという行動はすべて自分の希望・願望・欲望を満たす為の行動なのだ。つまり「自己愛」なのだ。

恋人に対する愛、妻・夫に対する愛、家族に対する愛、見返りを求めない無償の愛。他にも色んな愛があるが、これらの愛は、全て自己愛の上に成り立っているものである。人間なんて所詮自分が一番大事、自分が一番好きってことだね。

だから、「本気で人を好きになれない」「本気で誰かを愛せない」なんてことで悩む必要はない。また、何かしら見返りを求めたとしても何も恥ずかしがることはない。「自分のことばかり考えて人の事を思いやれない自分が恥ずかしい」なんて自分を卑下する必要もない。

「人は誰しも自己愛に基づいて行動している」。哲学を勉強したわけでもないし、心理学を学んだわけでもない。ただ、世紀末の詩というドラマを見ながら何となく考えただけのいい加減な結論かもしれないけど、こう考えると、ちょっとだけ気が楽になる自分がいる。だから、この考察は自分にとって意味のある考察であり、意味のある結論なのだ。ちょっと悲しい結論だけどね。

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