休みの日。特にやることがなく暇で仕方なかった俺はスマホのゲームで遊んでみた。時間は1時間位だろうか。
日頃はゲームを全くしない俺だが、シンプルなスマホゲームをそれなりに楽しんだ。シンプルとはいえ、こんなに完成されたゲームを無料で楽しめることに感動すら覚えた。
しかし、1時間程度遊んだ後、罪悪感のようなものに襲われた。具体的に言えば、「ゲームなんかで無駄に時間を使ってしまった。。」そう感じたのだ。ゲームをして1時間ほど楽しい時間を過ごしたにもかかわらず、なぜ後悔したのか?
自分でも理解し難い心理状態だったので、この感情を分析してみることにする。
なぜ、ゲームをして後悔した?
俺は、なぜスマホゲームをして時間を過ごしたことを後悔したのだろうか?考えられる理由をあげてみると・・・
- ゲームよりもやりたいことがあった。
- ゲームが楽しくなかった。
- ゲームに対して嫌悪感がある。
まず、1つ目だが、俺はやることが無くてゲームを始めた。従って、これは該当しない。ゲームよりもやりたいことなんてなかったのだから。
2つ目。ゲームの完成度に感動し、無料であることに感動し、ゲームにのめり込み、あっという間の1時間だった。よって、俺はゲームを十分楽しんでおり、「ゲームが楽しくなかったから後悔した」は該当しない。
3つ目。俺は、日頃ゲームをしないのだが、その理由を改めて考えてみる。こんなに楽しいゲームをなぜ日常的にやらないのか?
ずばり、「ゲームは無駄」だと思っているからだ。
ゲームは人生にとって無駄である
ゲーム大国日本において、過激な発言である・・・。
しかし、事実として俺はゲームをすることを「人生における無駄」だと感じていた。冷静に考えれば自分でも「酷いなぁ〜」と思うが、深く考えずにずっとそう感じていた。
毎日の通勤電車。周りをふと見渡せば、スマホでゲームをしている人はかなり多い。辛く退屈な通勤電車での時間を少しでも楽しもうとしている前向きな人々だ。
そのような人を見て俺はこう思っていた。
「ゲームなんて時間の無駄だ。知識が増えるわけでもないし、ゲームから人生で必要な何かを学ぶことは出来ない。本を読むとか、新聞を読むとか、英語を勉強するとか、もっと有意義な時間の過ごし方があるだろう!」
これはこれで正論だと思う。しかし、改めて自分の考えを整理してみて気付いたことがあった。
人生は有意義に過ごさねばならない?
改めて考えて気づいたこととは以下である。
- 有意義な時間の過ごし方って何だ?
- 何を持って有意義かそうでないかを判断するんだ?
- そもそも、人生って有意義でなければならないのか?
「人生という時間は有意義に過ごさねばならない」そう思いながらも、なぜそうしなければならないと思っているのかを全く理解しておらず、また、人生にとって有意義かそうでないかはどのように判断すべきかの定義もしていなかったのだ。
人生の折り返し地点に差し掛かっているにも関わらず、自分の人生について全く考えていなかった証拠である。
で、気がついた。「俺は人生を有意義に過ごしたいと思いながら、有意義に過ごしていなかったんだ」と。
人生とは
人生を有意義に過ごしたいのであれば、そもそも「人生」について理解しなければならない。なので、自問自答をしてみる。
Q:人生とは?
A:生まれてから死ぬまでの時間。
Q:人はなぜ生まれるのか?
A:誰にも分からないから考えるの却下。多分人生に意味なんて無い。
Q:では、死ぬまでどう生きていきたい?
A:楽しく生きていきたい。
Q:他に目的は?例えば、歴史に名を刻みたいとか?
A:そんなことどうでもいい。自分が楽しいと思う人生ならそれでいい。
つまり、俺にとっての人生とは以下の通りである。
「人生とは、生まれて死ぬまでの時間であり、俺はその時間をとにかく楽しく生きていたい」
ここで、さらに自問自答。
Q:新聞読んだり、英語勉強するのが楽しい時間の過ごし方か?
A:NO!
Q:ゲームをするのと勉強するのではどっちが楽しい?
A:ゲーム!
Q:貴方は1時間後に死にます。残り1時間でゲームしますか?勉強しますか?
A:ゲーム!
人生とは暇つぶし。気楽に生きよう!
「人生」って言葉には重みがある。人は、人生で大きなことを成し遂げなければならないと何となく思っていた。そう、俺は人生について考えることなんてないのに、勝手にそう思い込んでいたのである。
俺が人生に求めること。それは「楽しさ」である。何かを成し遂げるとか、後世に何かを残すとかではない。単純に俺が楽しいと思えればそれでいいのである。
よって、暇なら何したっていいのである。ゲームしても、本読んでも、もちろん勉強しても。それが楽しいのであればなんでもいい。
人生なんて所詮死ぬまでも暇つぶしなんだから。もっと肩の力を抜いて気楽に生きていこう。
コメント